―――貴方が望むならばこの身など、朽ち果てても構わない。
あの日、全てを貴方へ捧げると誓ったから・・・
紅の月
+prologue+
暗い暗い闇の中、ツンと鼻に付く異臭。
ただ独り立ち尽くす僕。
――――ここは何処・・・?
わからない。・・・・わかりたくない。
ツンと鼻に付くのは、錆びた鉄のような臭い。
暗いのは、僕が瞳を閉じているから・・・
「・・・・・何故・・・」
何故、僕はここに居るのだろう。
何故、僕は刀を持っているのだろう。
ただ、護りたかった・・・たった一人の、家族を。
「護・・・た、かっ・・・た・・・」
手から刀が離れ、崩れ落ちる体。
瞳を開けると、頬を流れる熱い涙が、ぽたぽたと地面に落ちてゆく。
すぐ傍には、血塗れで横たわる、亡骸。
「・・・・・小、春・・・姉様・・・っ」
震える指先で頬に触れても、その温もりは伝わってこない。
――――護れなかった・・・
大好きなあの笑顔を。
「姉様・・・・・姉様っ・・・・を、置いていかないでください・・・っ」
孤児だった僕を拾って、今まで育ててくれたの両親との約束を、僕は守ることができなかった。
泣いてはいけないと、姉様を護るのだと・・・約束をしたのに。
僕は守れなかった・・・
* * * * * * * * * *
家は、由緒正しい武士の家系であった。
年老いた父様と母様は娘しかいないことを気にかけており、まだ幼かった僕を養子として迎え入れてくれた。
両親も姉様もとても優しくて、僕は大好きだった。
家族四人で幸せに暮らしていたある日の晩、寝静まった我が家に、賊が押し入った。
父様が刀を片手に、母様と姉様と僕を護るように背に隠し、賊に向かって行った。
しかし、何処からともなく現れた賊の仲間に、父様は囲まれてしまった。
それからは一瞬の出来事だった。
賊の一人が父様を斬り付け、父様が倒れこんだ隙に僕達の方へ向かってきた。
『お・・・前、たちは・・・逃げ・・・な、さ・・・いっ』
苦しげに叫ぶ父様の声を聞いて、母様が、姉様と僕を背後の襖の外へと押し出した。
姉様と僕は唖然として、だけどすぐに母様の手を掴んだけれど、母様は頑なに其処から動こうとはしなかった。
『母様は、父様と共に此処に残ります。・・・・貴方達だけでも、生きて。』
優しいけれど険のある母様の声。
『・・・いやです。母様・・・っ・・・はいやです。母様も一緒に・・・・』
母様の着物を強く握り締め、泣きじゃくった僕。
『・・・いいえ、。泣いてはいけません。貴方は、を継ぐ者。父様の遺志を、継ぐのよ。姉様を・・・小春を、護りなさい。それが、貴方に与えられた最初の仕事です。さあ、早くお行きなさい!』
母様は僕の手を振り払って、パシンと音を立てて襖を閉めた。
僕は呆然と立ち尽くした。
襖越しに聞こえる、争う音。ガタガタと震える体。どうすることもできなくて、ただただ涙を流した。
『・・・・。今は此処から離れることが先よ。行きましょう。』
姉様に腕を引かれ、僕は縺れる足で家から逃げ出した。
『さようなら・・・小春、・・・』
母様の声が聞こえた、気がした。
――――走りながら見上げた姉様の横顔は、涙で濡れていた。
* * * * * * * * * *
あれから時は流れ、僕は14になった。
姉様と二人で暮らす日々は、あの頃と寸分の違いも無く幸せだった。
時折、父様と母様の名前を呼んでしまいそうになったけれど・・・。
姉様の優しい笑顔を毎日見られるようになって、僕はとても嬉しかった。
なのに、その幸せは、一瞬で崩れてしまった。
姉様と二人で出掛けた山で、賊に襲われた。
その賊は、あの日、僕達の家に押し入ってきた賊だったのだ。
「・・・よくも、父様と母様を・・・!!!」
僕はあの日以来、持ち歩くようにしていた刀を鞘から抜き、賊に向けた。
もう無我夢中で、一人、二人と斬り付けて倒していく。
全員倒し、息を吐いた瞬間、
「っ!!危ない!!!」
姉様の叫ぶ声がして、顔を上げると、死んだはずの一人が僕に向かってきていた。
しまった、と思い、体勢を直そうとした瞬間、目の前に誰かが飛び出してきた。
それが姉様だと気づいた時には、既に遅く、斬られた姉様が崩れ落ちていった。
「っ・・・うぁあぁぁぁぁっ!!!よくも、姉様を!!!」
僕は渾身の力を込めて相手を斬った。
「・・・・・っはぁ・・・・」
僕のちょっとした油断の所為で、姉様を死なせてしまった。
きつく目を閉じ、嗚咽を殺す。
「っふ・・・・姉、様・・・」
息が詰まりそうなほど苦しい。
右手に握った刀が重い。
「・・・・・何故・・・」
護りたかったのに、護れなかった。
自分の未熟さを思い知らされた。
刀が地面に落ちるのとほぼ同時に、僕は泣き崩れた。
「・・・・・小、春・・・姉様・・・っ」
触れた姉様の頬は冷たく、もう生きてはいないことを告げていた。
「姉様・・・・・姉様っ・・・・を、置いていかないでください・・・っ」
血で汚れることも構わず、姉様の体を抱き締めた。
「ごめ・・・なさ・・・い・・・」
護れなくて、御免なさい・・・
弱くて、御免なさい・・・・
「・・・・・おや。血の匂いを追って来てみましたが、もう終わってしまったのですか・・・」
突然聞こえた妖しげな声。
僕は姉様の体を抱き締めたまま、振り返った。
「だ・・・れ・・・?」
白銀の長い髪を靡かせて、彼は其処に立っていた。
その立ち姿を綺麗だと思った。
「あぁ、これは失礼しました。まだ生きている方がいらっしゃったのですね。」
彼はゆっくりと僕の方へと近づいて来た。
「・・・・貴方、私のものになりませんか?」
僕の目の前に立ち、そう言った。
「え・・・」
「取引ですよ。私のものになるのであれば、このまま生かしておいて差し上げます。私のものにならないと言うのならば、私に貴方を殺させて下さい。」
クックックと愉しげに笑う声。
僕は迷った。このまま生きていても、父様も、母様も、姉様も帰っては来ない。
ならば、いっそのこと、此処で殺してもらえば、寂しくないのではないだろうか。
だけど・・・・
この御方の傍に居れば、寂しくないかもしれない。
『・・・・。死ぬなんて言わないでね。』
ふと、姉様の声が聞こえた。
あれは、父様と母様が殺されてしまい、哀しみに明け暮れていた日々の中で、姉様が言った言葉。
『生きていれば、色んなことがあるの。楽しいことも、哀しいことも、辛いことも、嬉しいことも。新しい出会いだってあるわ。だから、いつも前を見て、後ろを振り返っては駄目よ。』
そう言って、花が綻ぶように笑った姉様。
『・・・・・生き続けていれば、貴方は独りじゃない。それを忘れないで。私達はいつも、貴方を見ているから・・・』
母様の優しい声が聞こえた。
まるで、僕の背中を押してくれているかのように、風が吹く。
「・・・・・・僕は、貴方と共に生きます。貴方の御傍に居させて下さい。」
姉様の亡骸から、髪飾りを取り、立ち上がって、真っ直ぐ彼の目を見た。
「・・・そうですか。では、私について来て下さい。帰りますよ。」
彼はそう言って、くるりと体の向きを変えて歩き始めた。
僕は一度だけ、姉様の亡骸を振り返って、姉様の髪飾りを胸の前で握り締めた。
「・・・姉様。僕はもう、泣きません。後ろを振り返りません。前だけを見て、あの御方について行きます。今まで、有り難う御座いました。」
最後に零れた涙を拭って、僕は彼の後を追った。
『頑張って生きてね、。』
風に乗って、姉様の声が聞こえた。
――――僕が忠誠を誓った御方の名は、明智光秀様。
僕の一生を、貴方に捧げます。もう二度と、大切なものを失わないために・・・
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+あとがき+
光秀との出会い編というか、主人公の過去編です。
プロローグの割には長いですが・・・